和田光正作品集III・「輝跡」
 
 
 
 
鎌倉最末期から南北朝動乱期に登場した従軍僧。一遍上人の時宗(念仏宗)の僧(時衆)が、戦死者の菩提を弔うために従軍したが、その多くは和歌・連歌・文芸・芸能を得意とし、全て『阿弥号(あみごう)』を名乗っていた。

その系譜を引き、後の室町幕府の職制に編成されたのが、「同朋衆(どうほうしゅう)」と呼ばれる制度であり、それは当初、殿中雑役の奉仕が職掌であった。それが、足利義満〜義持〜義教の時代には、一芸一能に秀でた者の同朋衆が出現し、四代四阿弥(毎・能・芸・相阿弥)の時代でピークを迎える事になる。その中には、千利休の祖とも言われる千阿弥(茶事に精通)の出現もあった。

但し、時衆の流れをくむ同朋衆は、全て阿弥号を名乗っていたが、この頃になると時衆とは関係なく、将軍自らの命令により、芸能者が阿弥号を名乗る事も増えてきた。有名な阿弥衆として、義満に命令された「観阿弥・世阿弥」、義教に命令された「音阿弥」などがいる。

このように、一芸一能に秀でた者が名乗る事を許された『阿弥号』。今回、金彩の着物・帯などを『〜布の宝石〜光阿弥(こうあみ)』と命名した所以である。


室町時代中期、足利義政の時代の文化をいう。文明15年(1483)に完成した銀閣寺を中心とする東山山荘にちなんでこう呼ばれる。東山文化の特徴は、禅宗の影響を受ける一方で、立花、茶の湯、連歌、能、水墨画などの新しい文化が起こり、現代文化の源流をなした。

雪舟の水墨画、土佐光信の大和絵、狩野正信による狩野派の画風大成、池坊専応による立花などが代表される。また、将軍家に近侍して諸芸をつかさどった同朋衆と呼ばれる集団も、特筆すべき存在であった。

同朋衆は、猿楽の音阿弥、作庭の善阿弥、唐物奉行を担当した能阿弥・芸阿弥・相阿弥、香、茶の千阿弥、立花の立阿弥など、すべて阿弥号をもつために阿弥衆とも呼ばれ、東山文化で果たした役割は大きい。


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